ジュエリータウンおかちまち

OKACHIMACHI STORY

御徒町を知る(歴史)

宝飾品の街としてのルーツも江戸時代にまでさかのぼります。御徒町付近は、上野寛永寺、浅草寺をはじめとし、数え切れないほどの寺社があったため、仏具や銀器の飾り職人も多く集まってきました。また、台東区には古くは浅草、吉原、柳橋、黒門町、湯島、根津など、域街、色街が多くあり、かんざし、帯留めなどの小物を納めるビジネスの拠点として便利だったことも理由のひとつにあげられます。明治の中頃になると、指輪を製作、加工する業者が増えました。やがて型を使用した量産技術が生まれ、宝飾品の街・御徒町のイメージをますます高めていきました。

1964年3月沖徽章商会辺りから北を見たところ

2016年

第二次大戦後には、上野で米軍の兵士が時計やアクセサリーなどを売買しはじめました。この青空マーケットがやがてアメ横の母体になりました。上野や御徒町はアメ横のバックヤードとして修理と仲買機能を果たすとともに、戦後いち早く1964年(昭和39年)の春から時計・宝飾業者同士の交換会である「市」も行われるようになり、宝飾品取引の中心地としての地位を確立しました。また、1956年(昭和31年)に時計関連卸11社で結成した「仲御徒町問屋連盟」もきっかけのひとつです。

1967年頃ミヤギビル辺りから北を見たところ

2016年