御徒町を知る(名前の由来)
あまり知られていませんが、江戸の町造りは京都をお手本にして築かれています。京都御所から見て琵琶湖になぞらえられたのが上野弁天池、比叡山に相当するのが上野寛永寺です。
さらに江戸城の北方の護りとして、御先手組、御書院御番組、御徒士組といった幕臣に屋敷、長屋が与えられました。町人の住む町には幕府によって名前がつけられましたが、面積の八割を占める寺社、武家地は、一種の治外法権だったために町名がなく、庶民は俗称を使って地理の目安にしました。
そのため江戸時代の地図には御徒町、中御徒町などと記されてはいるものの、公式な町名ではないので、どこからどこまでが御徒町なのかはわかっていません。
ところで、この御徒士組は幕臣の中でも下級の武士でしたから、江戸の中頃になると彼らの生活は苦しくなり、さまざまな内職にはげみました。中でも有名なのが屋敷の庭を利用した朝顔の栽培です。今でも行われている入谷の朝顔市のために、最初に栽培しはじめたのは御徒町だったといわれています。
1872年(明治5年)に、御徒町は正式な町名として採用されましたが、1964年(昭和39年)10月1日に変更されました。